「医療大国」の日本がなぜ?(中村秀一)
6月のある日、NHK取材班が当フォーラムにやってきた。スタッフの手で会議室がスタジオに早変わりし、大越キャスターとの応答になった。世界一病床数が多い「医療大国」の日本でコロナ対応病床がなぜ逼迫するのか、筆者のコメントがほしいとのことであった。カメラの前でのやりとりは1時間に及んだ。
求められた量から質への転換
わが国の医療は戦災で大きな被害を被ったが、1947年には戦前の水準に復した。高度経済成長が始まる1955年の病院数は約5000、病床数は51万床であった。皆保険の達成により医療機関への財源が確保され、1970年には病院数は約8000となり、病床数も100万床を超えた。
1976年刊行の厚生省編『医制百年史』には、1974年には病床数はほぼ先進国水準に達し、今後は「質的課題」だとの記述がある。
しかし、その後も病床数は増加を続け、1985年の医療法改正で病床規制が導入されたが、駆け込み増床もあり1990年に量的なピークに達している(病院数1万96、病床数167.6万床)。
構造的問題を抱えた日本の医療
今日、病院数は8300、病床数は153万床となっている。日本の病床数は人口当たりOECD諸国で断然多いが、それを支える臨床医や看護師の数はOECD諸国の平均以下であり、その結果、病床当たりの人員配置は極端に少なくなっている。非常に手薄な人員配置であり、まさに「戦力の分散配置」である。
加えて、病院数の約8割、病床数の約7割が民間病院であり、民間依存型の提供体制となっている。「命令一下」で動く体制とは程遠い。また、病床規模別にみると、100床未満の病院が36%、100~199床の病院が34%と200床未満の病院が7割を占めている。そもそも高い機能を支える基盤が弱体なのだ。
急性期を担うことを自称する病院が多いが、実態は高齢者施設化している。このようなわが国の医療提供体制の構造的な問題が、コロナ禍によって顕在化したわけである。
アンタッチャブルであった提供体制改革
1970年代初頭まで、政管健保の財政対策と診療報酬改定をめぐって国会内外で激突が繰り返された。保険医総辞退などの実力行使を辞さない強硬な日本医師会が一方の主役であった。これと対峙したのが厚生省保険局であった。医療提供体制の政策は、「自由開業医制」、「プロフェッショナル・フリーダム」を掲げる日医の前に、戦後40年近く沈黙を余儀なくされた。
現在、私たちはその「負の遺産」を背負っている。これが、新型コロナウイルスが我々に伝えてくれる「歴史の教訓」ではなかろうか。
WEB版への追加
結局、取材された番組はNHK総合テレビで6月26日(日)の21時から放映された。神奈川県内の病院の取材によって、医療現場の状況が示され、田村厚生労働大臣、中川日本医師会長などがコメントするという構成で、筆者は元官僚という立場で登場した。
取材の際に筆者が大越キャスターに説明した事項の一部は、番組の「解説部分」に取り込まれていたように思う。
コラムの本文に関連するグラフをここで提供しておきたい。
(本コラムは、社会保険旬報2021年7月1日号に掲載されました)