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ある社会福祉法人の70年の歩み(中村秀一)

霞が関と現場の間で

厚生省での初任者研修の訪問先

東京は4度目の緊急事態宣言下にある。「霞が関と現場の間で」を掲げながら現場に行けず、もどかしい思いをしていたところに天竜厚生会から創立70周年の記念誌『百々山物語 帰らぬ一匹を追って』(元毎日新聞記者の横田一氏執筆)が送られてきた。

我々が厚生省に入省した際に、初任者研修で「連れて行かれた」ところが天竜厚生会である。引率したのは採用業務を担当していた官房総務課の北郷補佐、江利川係長であった。新幹線で浜松まで行って、さらに山奥に入った。よくこのような場所を研修先に選んだものだと思った。

1泊2日の短い滞在だったが、特養、身体障害者施設、知的障害児・者施設、福祉工場などを次々と見学した。福祉の現場との初めての出会いであり、印象は強烈であった。つきっきりで案内してくれたのが創業者の一人の山村三郎さん。この福祉事業家の熱意に圧倒された。ひよっこ公務員にとって貴重な「刷り込み」となった。

結核回復者たちが自らのためにつくった施設

天竜厚生会は、結核から回復した患者たちが組織した「結核回復者コロニー準備会」が原点である(1946年)。1940年に国立結核療養所として設立された天竜荘(現・国立病院機構 天竜病院)を退院した山村さんたちが、自らと療友たちの居場所として病院の隣接地に建てた木造平屋の宿舎から始まった。

1950年には任意団体の天竜厚生会となり、1952年に社会福祉法人となった。最初の施設が1951年に生活保護法の更生施設として認可されている。1973年に訪問した際には多くの施設を持つ大きな法人だと思ったが、資料で確認すると当時の職員数300人、入所施設の定員数が550人とある。

現在では山の上だけではなく、山から降りての事業も展開し、事業数255、職員数2400人、年間の事業活動収入135億円という大規模な法人に成長した。

引き継がれてきたバトン

創業世代から事業を引き継ぎ、1989年から2000年に亡くなるまで常務理事、理事長として牽引したのが厚生省社会局OBの塩崎信男氏である。現役時代の氏は辣腕で有名であったが、筆者の公務員宿舎での隣人でお付き合いがあった。氏が天竜厚生会に大いに貢献されたという記述に接し、感銘を受けた。

現在の理事長(6代目)の山本たつ子さんは、初の職員出身の理事長である。山村さんの長女で、生まれたのは施設内。まさに天竜厚生会の歴史を体現している。 このような社会福祉法人に出会ったことに幸福を感じつつ、本を閉じた。  

(本コラムは、社会保険旬報2021年8月1日号に掲載されました)


中村秀一(なかむら・しゅういち) 医療介護福祉政策研究フォーラム理事長 国際医療福祉大学大学院教授 1973年、厚生省(当時)入省。 老人福祉課長、年金課長、保険局企画課長、大臣官房政策課長、厚生労働省大臣官房審議官(医療保険、医政担当)、老健局長、社会・援護局長を経て、2008年から2010年まで社会保険診療報酬支払基金理事長。2010年10月から2014年2月まで内閣官房社会保障改革担当室長として「社会保障と税の一体改革」の事務局を務める。この間、1981年から84年まで在スウェーデン日本国大使館、1987年から89年まで北海道庁に勤務。著書は『平成の社会保障』(社会保険出版社)など。

  


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