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謎の新興国アゼルバイジャンから|#40 去り行く世代から学ぶべきこと

香取 照幸(かとり てるゆき)/アゼルバイジャン共和国日本国特命全権大使(原稿執筆当時)

*この記事は2019年1月7日に「Web年金時代」に掲載されました。

本稿は外務省とも在アゼルバイジャン日本国大使館とも一切関係がありません。全て筆者個人の意見を筆者個人の責任で書いているものです。内容についてのご意見・照会等は全て編集部経由で筆者個人にお寄せ下さい。どうぞよろしくお願いします。

みなさんあけましておめでとうございます。
昨年は明治維新(1868年)から150年の節目の年でした。そして今年は2019年、平成最後の年です。太平洋戦争の終結は1945年ですから、あれから73年以上の歳月が流れたことになります。
明治維新から日中戦争が(本格的に)始まった1937年(盧溝橋事件)までが69年、太平洋戦争が始まった1941年までが73年ですから、今や「戦後」は先の大戦を挟んで近現代日本の歴史の半分以上の長さとなったわけです。

厚労省の現役時代、年金と並んで、高齢者介護は私の役人としてのライフワークでした。
世界一の高齢社会となった日本、戦後第一世代である「団塊の世代」のことは何かと話題になりますが、今回は、あまり皆さんの議論の俎上に載ることのない団塊の世代のさらに前の世代、明治・大正時代に生まれた人たちのことについて、ちょっと思いを巡らしてみたいと思います。

その前に、例によって近況報告。
平成最後の天皇誕生日祝賀レセプションを昨年11月22日に開催しました。
今回は大使館史上最大だった前回をさらに上回る400人が参加する盛大なレセプションになりました。今回も前回同様、国立コンセルバトワールの学生による両国国歌の斉唱、そしてイスタンブール在住の琴奏者、末冨敦子さんによる琴の演奏、天皇皇后両陛下のご公務の様子をまとめたビデオの上映など、館員一同趣向を凝らして気合いを入れて頑張りました。

イスタンブール在住の琴奏者 末冨敦子さんの演奏。
この国には琴のような音色の楽器は珍しいそうで、招待客の評判も非常によく、大成功でした。

各国大使館でも同様のようですが、例年、日本大使館のレセプションでは和食が大人気で、これを目当てにやってくる招待客もかなりいます(笑)。大使館では様々な和食メニューを準備して提供しますが、メインの握り寿司だけでも1,800貫くらい用意しますから、公邸料理人は前日から徹夜で準備をすることになります。

公邸料理人の負担があまりに大きいので、何かいい方法はないかと考え、隣国ジョージアの上原大使(上原大使は東京海上ご出身の民間人登用大使です)と相談して、「公邸料理人の相互レンタル」というのをやることにしました。
バクーのレセプションにジョージアの柴沼公邸料理人に助っ人で来ていただき、トビリシのレセプションには当地の北園料理人を助っ人に送る、というものです。
細かいことですが、公邸料理人は大使との私的契約に基づく被用者、という位置付けになっているので、雇い主である大使同士が合意すれば実施可能ということで、やらせていただきました。ただし旅費宿泊費に公費は出ません。費用はそれぞれ大使の持ち合いです。

向かって左側がジョージア大使公邸の柴沼料理人、
右側がアゼルバイジャン大使公邸の北園料理人。
料理人が二人になって「最強」でした(^_^)。上原大使に感謝!!

これは大成功。料理人が二人になって負担は軽減されましたし、お互いプロ同士、相談しながら作業を効率化したりメニューを工夫したり、現地スタッフへの指示も機動的かつ効率的になり、細かいところにも目が届くようになってシナジー効果抜群でした。
12月のジョージアのトビリシでの天皇誕生日祝賀レセプションもうまくいったようで、これはなかなかのヒットアイデアだったと自負しています。

さて。では本論に戻ります。
私ごとで恐縮ですが、私の父は大正13年(1924)生まれ、今年で95歳になります。お陰さまでまだ元気で存命しております。
父は昭和19年春に旧帝国陸軍に入隊し、陸軍航空隊の整備下士官として浜松飛行場、次いで金沢飛行場に勤務し、金沢で終戦を迎えました。

父は技術者(機械工)で、自分の父(私の祖父)と立ち上げた町工場で工員たちと一緒に仕事をしていました。陸軍でもその技能を買われて航空整備部隊に配属されました。浜松では来る日も来る日も、自分と同い年くらいの学徒兵たちが乗る特攻機(一式戦闘機(「隼」)や九九双発(軽爆))の整備をしていたそうです。
父は今でいう高専卒ですから、祖国の未来を託すべき同世代の大学生(エリートたち)を「死にに行かせるための航空機の整備」(父の言葉です)をし続けていたわけです。

戦後生き残った父たちの世代は、まさに焦土の中からこの国を再建しました。国を創る、ということを、理念を高らかに語るわけでもなく、高邁な理想に燃えるわけでもなく、唯々自分の生活とこの国の復興のために、自分ができることを黙々と積み上げていったわけです。そこにはきっと、死んでいった人たちとの無言の連帯感があったのではないかと思います。

言うまでもなく、今は大きな時代の転換点です。日本のみならず世界中で既存の価値観が大きく揺らぎ、社会の継続性・秩序への信頼が揺らいで皆が将来に不安を覚えている時代です。「自由と民主主義」への懐疑がひろがり、日本でも憲法論議もタブーではなくなりました。

最近ある人に指摘されて改めて気がついたのですが、今の私たちが拠って立っている社会秩序―ここでは「戦後民主主義」と呼ぶことにします―を形作ったのは、実は明治・大正生まれの人たちです。明治40年生まれは昭和20年に38歳、大正13年生まれ(私の父の世代)は21歳です。戦後日本の復興を司った中核世代は、実は明治40年代から大正時代に生まれた人たちなのです。

この人たちの人生に思いを致してみると、それこそ波乱万丈の人生です。日清日露の戦争、第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、大正デモクラシー、関東大震災、大恐慌、5.15事件に2.26事件、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、そして無条件降伏、敗戦。
20世紀は「帝国主義と戦争の時代」と言われます。彼らはそれらをくぐり抜け、築いたものをいったん全て失いながら戦後の焦土に立って復興の先頭に立ったのです。

彼らの世代は「リアルな戦争」を身を以て体験した世代です。
昨年亡くなられた与謝野馨元社会保障・税一体改革担当大臣は、随筆の中でこう述懐されています。
「後藤田正晴氏、宮沢喜一氏、梶山静六氏、いずれも反戦平和だったと思う。梶山静六先生は、私によくこう言われた。『与謝野、君たち若い世代は、本当の戦争を知らない。戦争というものは、実際どれほど悲惨なものかは、なかなか判ってもらえないだろうがね』。」(「目指した明日 歩んだ毎日」(与謝野馨 文藝春秋企画出版部)より)
私が子どもの頃、私の父もまた、まさに同じ趣旨のことを繰り返し私たち兄弟に話していました。

「戦後60年の間に日本の自衛隊によって他国の人間を殺したことはないんですよ。それからまた他国の軍隊によって殺されたこともない。先進国でこんな国は日本だけですよ。これは本当に誇るべきことだと思う。これだけは頭の中において政治の運営をやってもらいたい。」(2005年1月2日 TBSテレビ「時事放談」での後藤田正晴元官房長官の発言)

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