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山口昇先生を悼む(中村秀一)

霞が関と現場の間で

「地域包括ケアシステム」の命名者

3月末に山口昇先生(89歳)の訃報に接した。山口先生は1966年に出身地の長崎から広島県御調(みつぎ)町(現在は尾道市)の御調国保病院(25床)に外科医長として赴任した。以後45年間、病院長、事業管理者として病院経営に携わり、病院(現・公立みつぎ病院)の規模を10倍とした有能な病院経営者であった。

驚くべきは、退院された患者が寝たきりになっていることを憂慮し、早くも1974年に制度が全くなかった訪問診療・訪問看護を「出前の医療」として開始されたことである。81年には病院の隣接地にある特別養護老人ホームの運営にも参画し、福祉まで手を伸ばした。さらに、84年には御調町の行政部門である健康管理センターを病院内に取り込み、保健まで傘下に入れた。老健施設もいち早く整備した。

このような保健・医療・福祉の領域を統合し、入院・入所だけではなく在宅までに及ぶ自らの取組みを「地域包括ケアシステム」と名付けたのである。

「寝たきり老人ゼロ作戦」

介護保険制度がスタートする10年前、ゴールドプランが始まり、福祉8法の改正が行われた。当時の日本では「寝たきり老人」が多く、不適切なケアから「寝かせきり」にしているとして、その是正が求められた。厚生省も「寝たきり老人ゼロ」に取り組んだ。

「寝たきり」の程度の判定基準すらなかったので、その基準が作成された。また、「寝たきりゼロへの10か条」も策定された。山口先生はこれらの取組みに積極的に参画したが、何よりも御調町での実践が手本とされたのである。当時の担当が老人保健課長の伊藤雅治氏であったが、その伊藤氏も亡くなられて久しい。寂しい限りである。

全国のリーダーとして

山口先生は国保診療施設協議会、老人保健施設協会などの会長を歴任され、医療・介護政策に影響力を発揮されたリーダーであった。当時、厚生省の歴代の国保課長は就任すると、すぐに御調町に行くのだと言われていた。あたかも聖地巡礼のように。

2000年の介護保険の導入に至る過程を振り返る時、山口先生が果たされた役割は誠に大きなものがあった。私も90年代の初頭、老人福祉課長の時に御調町に最初に訪問したし、老健局長時代にまとめた報告書『2015年の高齢者介護』には「地域包括ケアシステム」が、行政の文書としては初めて盛り込まれている。

優れた実践者の取組みを、行政が学びつつ制度化し、全国に普及していく。この好循環を山口先生と厚生行政で作ることができた。振り返ると幸せな時代であったと思う。

(本コラムは、社会保険旬報2022年5月1日号に掲載されました)


中村秀一(なかむら・しゅういち)
医療介護福祉政策研究フォーラム理事長 国際医療福祉大学大学院教授
 1973年、厚生省(当時)入省。老人福祉課長、年金課長、保険局企画課長、大臣官房政策課長、厚生労働省大臣官房審議官(医療保険、医政担当)、老健局長、社会・援護局長を経て、2008年から2010年まで社会保険診療報酬支払基金理事長。2010年10月から2014年2月まで内閣官房社会保障改革担当室長として「社会保障と税の一体改革」の事務局を務める。この間、1981年から84年まで在スウェーデン日本国大使館、1987年から89年まで北海道庁に勤務。著書は『平成の社会保障』(社会保険出版社)など。

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