謎の新興国アゼルバイジャンから|#39 私の教養主義復権論(その5―終)何故教養が大事なのか
みなさんこんにちは。
「私の教養主義復権論」の5回目、最終回です。今回は長くなるので「枕」はありません。悪しからず。
ここまで、「正解を教える教育」の負の側面について述べ、疑うこと=批判的考察の重要性、多様な考え方・多様な価値観を理解することのできる「知の体系」「思考の枠組み」=OSとしての「教養」を身につけること、自らの「理性」と「感性」をはぐくみ、既成の「正解」にとらわれない自由な知的営為・創造的実践を行うことこそが困難な時代を乗り越えて行くために必要であることなどなど、「教養主義復権」の必要性について私なりに考え方を述べてきました。
「『よい子の檻』に閉じ込めて行くようだ」。日本の教育システムについてこう言った人がいます。教育には「規律の内面化」という側面がありますからある意味それは仕方のないことなのかもしれません。
以前の回でも書きましたが、明治期の日本や第二次大戦後の新興独立国のように、「近代化」「殖産興業」「富国強兵」といった形で「国家建設の目標」がはっきりしている社会にあっては、経済社会を支える「規律を守る訓練された人材」「国家有為の人材」の養成のため、そういう教育は非常に有効だったと思います。
他方で、正解を学ぶことを重視し、批判的考察の涵養を重視しない教育システムは、多くの「頭はいいが受動的で頭が弱い人材」を生み出すことになります(第34回参照)。
そうでなくても、複雑化し、専門性が極限まで細分化された現代社会では、科学者にしろ実務家にしろ、自分の専門分野に知的リソースを注力し、専門外のことは考えないことが一種の職業倫理であり、知的誠実さ、真面目さとさえ考えられています。
言いかえれば、私たちの社会は、「自分たちの判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して「それを意識し、『対自化』して―即ち「外側から」―批判的に考察するという『知的態度』」を十分に持ちあわせない(あるいは敢えて持とうとしない)従順な多くの秀才たちを生み、再生産している、ということにもなるように思います。
ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントは1963年、雑誌「ニューヨーカー」にアイヒマン裁判の傍聴記録を連載しました。その中で彼女は、ナチスドイツの大幹部であり、SS(ナチス親衛隊)の将校にして国家秘密警察(ゲシュタポ)のユダヤ人移送局長官として数百万人のユダヤ人を収容所送りにしたアイヒマンが、裁判で「自分は上からの命令に従っただけだ」とひたすら繰り返す姿を見て、その言動のあまりの矮小ぶりに驚き、彼を巨悪を主導した残虐なモンスターとは程遠い単なる凡庸な(banal)小役人だった、と断じました。その上で、人は「思考しなければ、どんな犯罪を犯すことも可能になる」と結論づけました*。
第30回の連載で、大学で「ナチスを体験する」授業を続けている甲南大学の田野大輔教授が、「独裁体制の支持者など、権威に服従する人びとは一見従属的な立場に置かれているように見えるが、実は上からの命令に従うことで自分の欲求を充足できる治外法権的な自由を享受しており、主観的にはある種の解放感を味わっている可能性が高い」と述べている、という話を紹介しました。
閉鎖的な状況において権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したイェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)の報告*によれば、「閉鎖的な環境では、誰でも権威者の指示に服従して悪魔のように振る舞う」ことがあり、「権威の庇護にある安全圏で個人の思考を放棄すると、善悪やモラルの判断まで放棄してしまう」のだそうです。
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